2025年12月
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- 12/27 『聖少女』/倉橋由美子
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- 12/17 『サブカルチャー神話解体 少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在』/宮台真司・石原英樹・大塚明子
- 12/9 『辞書からみた日本語の歴史』/今野真二
- 12/7 『漢字からみた日本語の歴史』/今野真二
■ 記録
聖少女
『聖少女』
著者:倉橋由美子
刊行年(月日):1965年9月5日
出版社:新潮社
理科系の作文技術
『理科系の作文技術』
著者:木下是雄
刊行年(月日):1981年9月25日(初出)、2015年3月5日(80版)
出版社:中央公論新社
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サブカルチャー神話解体 少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在
『サブカルチャー神話解体 少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在』
著者:宮台真司・石原英樹・大塚明子
刊行年(月日):1993年10月28日
出版社:PARCO出版
第1章 少女メディアのコミュニケーション
今日、私たちが生活し行動する〈世界〉についてのイメージの大部分は、メディアが媒介する「情報」を素材として構成されています。このことは、いわゆる情報化社会が最初に出現した一九二〇年代の米国で早くも指摘されました。マス・メディアが媒介する情報は、省略や強調、誤認や歪曲を合わせ持つことから、真の環境とは異なる「疑似環境」が私たちの意識を規定し、そのために真の環境への適応を妨げられることが問題とされたのです。
p11
私たちが現在直面する高度情報化社会は、一九二〇年代とは比較にならないほど高度に発達しています。社会に流通する情報の総量が爆発的に増加しただけではなく、情報の流通チャンネル──メディア──も飛躍的に多様化しました。同時に社会全体が複雑化して見通しのききにくいものになった結果、私たちは〈世界〉についてのイメージを形成するにあたり、ますますメディアに依存せざるを得なくなっています。このため、大衆が同一の疑似環境に生きるという単純な状況ではなく、互いに異なる何種類もの〈世界〉が並立することになったわけですね。
私たちの研究によれば、ある時代以降、少女マンガが、〈世界〉を読み〈私〉を読むための、〈関係性モデル〉として機能し始めたのです。[...]少女たちは自分がどんな状況にあっても、「これってあたし!」と言えるモデルを少女マンガの中に探し出せます。少女たちは、そこに自分を見いだし、現状を枠づけ、期待外れを「ありうること」として受けとめるのです。
p13
まず、第一に私たちは、「乙女ちっく」に始まる転倒した〈世界〉解釈の営みが、後の若者文化を特徴づけるコミュニケーションの“記号”性の端緒となったという事実に、注意を促したい。高度消費社会を特徴づける「〈私〉の〈物語〉の異常な増殖」の先駆けとなっていることに注目したいということです。
p24
第二に指摘しておきたいのは、こうした転倒が、疑似現実(架空のオハナシ)と現実の間の距離を、無効にしてしまうということです。こうした転倒によって、少女たちは、現実をオハナシのように、あるいは、オハンシを現実のように、生き始めます。これは80年代の「隠されたリアリティ」である「浮遊感覚」に、直接つながっていきます。
指摘されるように、〈少女〉には「ひらひら」の他に、「ヅカヅカ」への志向も強くある。ところがこれら二つの志向は、個々の表現では重点の置き方が異なっても、決して背反してはいない。対立するかに見える意匠を包括するものこそが、実は「〈少女〉的なるもの」の領域の同一性なのだ。それを一言で、「清く正しく美しく」というふうに表現しておこう。
p30
こうして、戦前的な「性から隔離された身体」としての〈少女〉は、ついに消失するにいたった。それに伴って、「少女」という言葉自体も相対的に用いられなくなり、代わって(「男の子」に対応する)「女の子」という言葉が浮上してきた。[...]こうした〈少女〉の消失と〈女の子〉の誕生とに伴い、彼女たちを受けてとする「少女文化」は、「若者文化」へと変質していったのである。
p33
60年代半ばの段階では、「かわいい」は、「みんなに好かれる」という戦後民主主義的な理想を──「物分かりのいい団地ママの娘はみんなに好かれる」といった都市核家族敵なイメージを──縮約するものだった。それはママの視点だったと言ってもいい。ところが、〈若者〉たちの60年代サブカルチャーが高揚する60年代後半になると、「かわいさ」への志向は、一部の論者が言うような性からの隔離どころか、「大人(成熟)/子ども(未熟)」というメインカルチャーのコードを意識的に無化し、「子どものまま性的になること」を宣言する〈若者〉サブカルチャーのマニフェストとして利用されるにいたったのである。
p35
ロマンチックな「かわいさ」が「自分と世界のロマン化」として自閉・自足的なのに対して、キュートな「かわいさ」は、たとえ自分だけで楽しむことがあったとしても、最終的には友達や恋人と「見て見て、これかわいいでしょ」「うっそぉ、しぶ~い」などと言い合えなければ、意味がない。「〈私〉だけの世界」という内向きの思い入ればかりを志向するロマンチックと違って、キュートな「かわいさ」は、「これってあたしっぽい」といった自己意識においてのみでなく、外向きの奔放な、しかし軽くて傷つけ合うことのない対人関係の形成においてこそ、その力を発揮するのである。
p46
しかし既に述べたように、そのロマンチックなナルチシズムは、たとえばイラストポエムに典型的だったように、きわめて定型的なパターンを持っていたのだった。というよりも、誰もが利用できる定型だったからこそ、「乙女ちっく」は大衆的な規模で受容されたと言えるだろう。ところが、ほどなく女の子たちは、この「かわいい」定型に依拠することが表現の自動筆記的な増殖をもたらすことに、気づいたのである。
p46
表現の主体としての「内的確かさ」をどんなに欠いていても、かまわなかった。そもそも既に述べたような「不確かさ」の意識を拠り所とするナルチシズムとして始まった定型なのだから、それも当然のことだった。♡や☆や「やっほー」「ではでは」などを多様する不思議な浮遊感覚を伴った定型的な文体は、表現を匿名化することで、書かれたものから、書き手の「内的確かさ」を探り当てられる可能性を消し去り、コミュニケーションを「かわいい共同体」の自動化されたゲームに変化させるのである。
最初その文字は、見通しがたくなった他者の内面から「〈私〉の世界」を保護するための自閉ツールだった。だがしばらく経つと、内面を不問に付したままコミュニケーションするためのツールへと変わっていく。まる文字によって「“かわいい共同体”のメンバーだ」というシグナルが送られると、お互いに平等な匿名メンバーとして「お約束の中で」振る舞えるようになることに、女の子たちが気づいたのである。
p53
実際、70年代半ばを過ぎる頃、女の子たちはまる文字修得を「社交」という概念で受けとめ始めていた。多くの女の子は「まる文字を書かない女の子は社交的ではないような気がして」意識的に字体を変えようとしていた(特に勉強のできる子ほど気にしていたともいう)。社交的でない女の子は生き残れない──その意味での「かわいい共同体」は女の子に半ば強制的に参加を促す「権力」を持ち始め、すべての女の子を巻きこんでいった。それに並行して「かわいい共同体」の質も、「思春期的な幻想性」から「子どもっぽい無害さ」へと──敷居を下げていったのである。
第2章 音楽コミュニケーションの現在
とりわけ68年創刊の『セブンティーン』──現在のそれとは違って72年以前は「GS専門誌」の観があった──は、少女たちに相互浸透[引用者註:p81注釈(1)に「相互浸透は、人格システムのコミュニケーションにおいては、あるシステムが別のシステムの体験地平を自らの内に再現しているかのように振る舞うことを指す。たとえば、「感情移入」は、一時的な相互浸透である。」とある]のコードを流通させるのに役立った。たとえば、当時「ハプニング」と呼ばれたイベントの一環として持たれたタイガースと知識人の討論に際しては、「私たちがタイガースを守る」という少女たちの投書が殺到している。結局「NHKに出られず」「少し年上の兄や姉にも理解してもらえなかった」ことが、GSの聴き手に独特の享受の仕方をもたらしたのだと言えよう。
p61
これはもちろん、音楽やその送り手の性質というよりも、聴き手側のコミュニケーションの文脈によって、条件づけられたものである。「あの人たちは〈私たち〉しか分かってあげられない。でもその〈私たち〉は〈大人〉や〈周囲〉から分かってもらえない」。聴き手の少女たちは、自分の置かれ方を彼らの置かれ方に投射し、それをさらに自分の置かれ方と同置することで自分を鼓舞するという、一種の「自己投射」を行っていたのである。
こうしたいわゆるアングラフォークは、当時勃興期にあった深夜放送メディアと深く結びついていた。[...]番組で流されるフォークはむしろ付け足しで、聴取者の投稿をもとにした恋愛や受験の悩み相談が、深夜帯という相対的に自由なシチュエーションの中で、「パーソナルな雰囲気で」なされていたことのほうが、はるかに重要である。
p64
ここでのコミュニケーションは、一言で言えば「この人だけが〈私たち〉を分かってくれる」というものだった。すなわちGSの時代の相互浸透の形式(この人たちは〈私たち〉だけが分かってあげられる)とは、非対称性の向きが逆転していたのである。
かつてのパロディが「意味」に対して「無意味」を対置させる試みだとすれば、自己適用化されたパロディは、[意味/無意味]という対立を「非意味」という第3項によって無効化する試みだった。対立を前にしてオドケてみせる──その意味でまさにそれは「諧謔」と呼ぶにふさわしい。[...]しかし、対立があればズレてみせるという定型的身振りの延長上にあった浅田彰の『構造と力』(1983)が、「カフェバー」と同列のおしゃれアイテムとして消費されるに及び、反サブカルチャー的サブカルチャーは当初の文脈を見失って、完全に失効するにいたる。
p69
消費の仕方を消費する「メタ的な消費」は、同時代に優越していた音楽コミュニケーションのコード──「自作自演こそ最高である」──に対する梯子外しだったのであり、その意味で同時代のポップス的なものとも共振する一種の諧謔にほかならなかった。こうした諧謔は、横並びになっていない価値があって初めて機能する。後でもまた述べるように、すべてが横並びになったとき、むしろ諧謔は失墜を開始するのである。
p74
これらとは別に、80年代に入ると「インディーズ性」という意匠と「パンク」の音楽形式を踏襲したロックが、ナゴムやトランスなどの人気レーベルから続々と登場、それぞれが「内輪のファン」を獲得するようになってくる。ここに見いだされる音楽コミュニケーションは、「めんたい」系[同頁「「東京ロッカーズ」とほぼ同時期、すなわち70年代末に、ARB、MODS、ROCKERSらの「めんたいビート」と呼ばれる一群の九州のバンドがメジャー化する」]とは逆向きの、「〈私〉だけが彼らを分かる」(=奴らには分からない)という相互浸透によって特徴づけられていた。これは確かに「〈私たち〉だけが彼らを分かる」といったGS的な相互浸透の形式と似ているように見える。だが前者の場合、「奴ら」は同世代の内部にも存在することになっていて、〈私たち〉の主語の複数性が無数の〈私〉の単数性へと断片化・拡散化されている点で大きな違いがある。
p78
個々の作品のパッケージングとして、ジャンルがそれほど意味を持たなくなったことはおそらく事実だろう。むろんこのことは、「芸術(いい作品)はジャンルを越える」といった一般論とは水準が異なっている。問題なのは、ある作品がたとえば「ロック」を名乗ることによって聴き手が期待しうるものが、相対的に小さくなったということなのだ。以前ならば、[...]ジャンルの差異が、個々の作品に期待できる音楽コミュニケーションの違いを表していた。
p85
「現実を忘却するために聴く」という回答は、ロックが、明らかに「現実を遮断するもの」として意識されていることを意味する。[...]“繭”に籠って現実を遮断するための音楽としてのロック──。この遮断は、しかし、いかにして可能になっているのか?
p98
ロックにしかない享受形式を探ってみるのが、一つのヒントになるだろう。かつて暴走族の集会の場で流れていたのは、MODSや矢沢永吉などのロックだった。だが「場所に」結びついた〈シーンメイキング〉な享受がなされていたわけでは、決してない。あくまでもメンバーシップの同一性や共同性の確認に結びついた──その限りでのみ「集会」に結びついた──ものだったのだ。こうした同一性の確認は、現在でもライブハウス的共同性やヘビメタ的共同性として見いだすことができる。この種の享受形式は、明らかにロックに独特のものである。
86年調査によれば(詳細は宮台[1990])、この時期に「新人類的なもの」すなわち差異に敏感な“記号”的消費に相対的にコミットしていたのは、「ミーハー自信家」と「友人よりかかり人間」だった。ただし、ミーハーが自分の好みを信頼した「主体的」な選択を行うのに対して、よりかかりは周囲を模倣する傾向が強いという違いがあった。その意味で、ミーハーは「新人類リーダー」、よりかかりは「新人類フォロワー」だった。さらに注目されたのは、ミーハーが“記号”的消費を対人関係と結合させていたことである。自分がつきあう相手をどんなファッションを身にまとい、何に乗り、どんな店を行きつけにするかによって、選別する──。こうしたいわば“記号”的対人関係に関わっていたのは、ミーハーだけでだったのである。
p119
次に、90年調査によれば(詳細は宮台[1992a])、このころに話題になっていた「オタク的なもの」を象徴する「モノローグ・メディア」──ビデオゲーム・テレビ・マンガ・パソコン通信など──への強いコミットメントを示していたのは、「頭のいいニヒリスト」だけである。ところが「自分をオタクだと思う」比率は、むしろ「ネクラ的ラガード」において突出していた。対人領域から疎外され、自由になるものといえばメディア世界しかないというこの人格類型の消極性が、こうした自己意識として表現されるものと推測された。ニヒリストが、確信犯的・主体的にモノローグ・メディアにコミットするのに対して、ネクラは、既に流通しているソフトを受け身に消費する──。その意味で、ニヒリストは「オタク・リーダー」的、ネクラは「オタク・フォロワー」的だと言えよう。
図15②〔女性の各人格類型内でロックを支持する割合〕を見ると、ロックを圧倒的なトップで支持しているのは、女性ニヒリストである。[...]男性の場合とは違って、女性ニヒリストがこれほどロックを支持するのは、なぜなのだろうか? それを解くヒントは、やはり図17〔各女性人格類型がよく聴くミュージシャン〕に見つかる。女性ニヒリストの回答には、他のすべての女性人格システムに登場している杏里や久保田利伸に代わって、佐野元春が上位に来ているのである。
p128
[...]そこで求められているのは、女性ニヒリストに固有の屈折した上昇志向(ちょっと違う私!)に基づく差異化ツールなのだ。斉藤由貴の「多芸多才」・中島みゆきの「芸術的知性」・佐野元春の「反原発」──これらは、女性ニヒリストにとって、自らの上昇(フツーじゃ終わらないわ!)を幻想的に代替するための、「ワンランク上」的なシンボルなのだと考えられる(ちなみに私たちの統計によれば、90年当時の『マリ・クレール』──蓮實重彥や吉本隆明が常連だった──を読むのは圧倒的に女性ニヒリストだった)。
第3章 青少年マンガのコミュニケーション
戦後の少年小説・少女小説では、回復が目指されるべき〈秩序〉──社会の正義──が「大日本帝国」から「世界平和」に変わったことはあっても、先に紹介した書き手の連続性にもうかがえるように、「〈理想〉の実現を媒介とする〈秩序回復〉」という物語構造には、まったく変化がなかった。確かに、現象的に見る限りでは、小説の中で挿絵の比重が高まり、福島鉄次・山川惣治・小松崎茂らの「長編絵物語」が盛んになるなど、戦後の子供文化の目ざましい「ビジュアル化」が見られたが、そこでも上に述べたような物語構造が失われることはなかったのである。
p143
手塚のこうした一連の作品に見られる新しさ──それは〈秩序〉の自明性が失われてしまっているということである。戦前から昭和30年代にいたるまでの少年メディアの中で疑われることのなかった〈秩序〉の絶対性は、その中に愚劣さや悲惨さを含むものとして反省され、最終的に〈支配〉の無根拠性を隠蔽するものとしてとらえ返されている。この変化が、「大日本帝国」から「戦後民主主義」への無節操な秩序転換を多感な時期にくぐり抜けた手塚自身の経験を前提にしていることは、疑えないだろう。
p146
60年代に、「個人」を疎外する「社会」への否定的意識が前面に押し出されていた背景には、都市と農村の格差や、都市における階層格差を、はっきり目に見えるかたちで意識せざるを得なかった当時の社会状況がある。実際、〈疎外〉意識を明確に抱えた主人公が最初に現れたのは、都市下層労働者──その中核が地方出身の集団労働者だったことはいうまでもない──を主要な受け手としていた昭和30年代の「貸本劇画」においてだった。主人公の多くは、当時まだ根強かった「強く正しく明るく」といった〈理想〉を体現する者からは程遠く、何らかの仕方で〈疎外〉され、悩み苦しむ者であり、だからこそ読み手が自己を重ねえたのである。
p149
こうした作品群[引用者註:梶原一騎『巨人の星』(初出1966)、本宮ひろ志『男一匹ガキ大将』(初出1968)など]は“〈疎外〉された主人公が何らかの〈課題達成〉を通じて真の〈男〉を目指す”という、同一の物語構造を持っていた。従来のように侵犯された社会秩序の回復ではなく、「巨人軍の星になる」「番長になる」などといったあくまで個人的な〈課題達成〉が目標として描かれ、根性ドラマが展開される。こうして初めて、マンガが個人の成長や上昇の観念が持ち込まれ──ライフヒストリーの発見!──、マンガが個々人の「人生の指標」となりうるような可能性が開かれたのである。
p151
p
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辞書からみた日本語の歴史
『辞書からみた日本語の歴史』
著者:今野真二
刊行年(月日):2014年10月10日
出版社:筑摩書房
本書で徐々に述べていくが、『和名類聚抄』は後の時代に大きな影響を与えている。辞書のチャンピオンといってもよいかもしれない。それは、この(時代を先取りした)バランスの良さということにかかわるのではないかと考える。「和名」=和語をとりこむことによって、中国語=漢語に過度に傾斜しない「日本語の辞書」という面をうちだすことができた。そのことには注目しておきたい。
p33
漢語だけを見出し項目にするのでもなく、和語だけを見出し項目にするのでもなく、漢語も和語も見出し項目にする。漢語と和語とをつなぐのは、漢字列、これは大袈裟にいえば日本語の一つの到達といってもよいのではないかと思う。
p80
例8の「ガラクタ」に関しては『和英語林集成』は漢字列「雑具」をあてるが、『言海』は「普通用」の漢字列を示していない。『和英語林集成』が漢字列をあてない見出し項目も少なからずある。『和英語林集成』も『言海』も漢字列をあげていないような見出し項目は、明治期において、あてる漢字列が安定していなかった、あるいはふさわしい漢字列がなかったとも考えられ、そうしたところに着目することもできる。
p135
わたしたちは幕末明治期に西洋文化と接触することによって、日本が劇的に変化した、というイメージを抱きやすい。そうした面はもちろんあるが、この時期に起こった「変化」を受け入れ、なんとかコントロールできるだけの素地があったと考えたい。コントロールできたことにはさまざまな理由があるだろうが、日本語ではない外国語である中国語と長期にわたって接触を続け、その中国語をかなり大量に借用し、理解していたという外国語との接触経験があったことがその理由の一つであると考える。このことは重要なことで、明治初期に「英和辞書」を編纂できたのは、それまでに「オランダ語日本語対訳辞書」を編んでいたためと思われるし、ひいていえば「中国語日本語対訳辞書」という枠組みの中で辞書が編まれてきたという長い歴史がそれを可能にしているといってもよいと考える。
p158
漢字からみた日本語の歴史
『漢字からみた日本語の歴史』
著者:今野真二
刊行年(月日):2013年7月10日
出版社:筑摩書房
その結果、最初は外国語であった中国語が、次第に日本語の中に溶け込み、漢語となっていった。しかし、それは、中国語が日本語になるということではない。中国語は漢語となったが、それは和語との関わりの中で漢語になったということであり、漢語と和語との間には、いわば「緊張関係」のようなものが維持されていた。それはおそらく明治、大正のある時期まで続いていた。
p83
仮名は日本語を文字化するためにうみだされた文字であって、当然のことながら、仮名を使えばどんな和語も文字化することができる。どのようなものを「仮名文」と呼ぶのか、定義として考えると、それはそれで難しいが、ひとまず「あまり漢語を使わないで和語で組み立てた文で構成された文章、作品で、仮名で書くことを原則とする」ぐらいに考えておく。そうすると、そうした「仮名文」の中であっても、漢字で書かれる和語があるということはやはり見逃せない。仮名をうみだしたからといって、漢字を捨てる気はなかったと考えたい。
p86
「なぜ日本語を漢字で書き続けたのか」という問いの一つの答えは、漢字で書くことによって「公《おおやけ》性」が保証されているという感覚があったのではないかと考える。これは日記を漢文で書いていたということにも関わっているように思われる。日記は他人にみせることを意図せずに書いていることがほとんどであろうから、そうした意味合いでの「公性」ではなくて、個人的な行為であるにせよ、日々の記録を付けるという面での「公」性であろう。
p116
明治三年に出版された、漢語を絵入りで説明している二つの書及び一枚刷りの漢語和解一覧を紹介したが、このような書物が出版されたのが明治の初年から一〇年頃までの間であった。このことをもって、すぐに明治の初年頃には漢語がよく使われていたというのは単純過ぎるが、それでも、漢語が関心をもってむかえられていたとみることはまちがっていないと考えられる。
p124
図22上段に「艱難《カンナン》 ナンギ」とある。これは「カンナン」という漢語を「ナンギ(難儀)」という漢語で説明している。つまり「漢語一語を漢語一語で説明する」という現象である。『新令字解』全体をみていくと、このような例が少なからずあることに気づく。
p126
例えば漢語「シュウイ(周囲)」と「シュウヘン(周辺)」との語義の違いは、「囲」と「辺」との字義の違いに由来するはずである。しかし、そこはあまり気にしなければ、両語はだいたい同じ語義ということになる。[...]和語との「かね合い」の中で、漢語同士の「微調整」も行なわれていったことが予想され、いわば「淘汰《とうた》」を経て、だんだんと落ち着いたかたちに向かっていったと思われる。
p132
「書き手」が何らかの負担をしてよみやすくするのか、「読み手」が努力して自由に書かれたものを読み解くのか、といった時に、「読み手」の負担を減らしているのが現代であろう。明治期までは、どちらかといえば。「書き手」が自由に書いていたようにみえる。それは文字社会が狭かったから、「書き手」と「読み手」とが重なり合っていたからともいえよう。「書き手」主導の時期から「読み手」主導の時期へと移行していることを指摘しておきたい。
p160